2026年 01月 08日
京都の風に吹かれて 勤王志士の画家・松浦 松洞
京都の風に吹かれて 勤王志士の画家・松浦 松洞
松浦 松洞(まつうら しょうどう)
(*松浦 亀太郎) 名は知新、字は無窮、松洞と号する。
長州、萩の商家に生まれ、幼きより丹青(たんせい・*絵画)の技を能くし、
礀宗四郎(本名は益田時貞、天草四郎)を師とする。
好んで忠孝節義の人を貌し(*偲び)、世道を補益することを期す。
後、吉田松陰に従学し、久坂 玄瑞、中谷正亮などと交際を重ねる。
爾来(じらい・*それから後)、(*松浦 亀太郎) は藩主父子および師友の情義に感激し、身を家国に效そう(*尽力しよう)と誓い、尊攘のために尽瘁(じんすい・*自分の労苦を顧みることなく、全力を尽くすこと)する。
文久2年4月、竊(*ひそか)に同志を募り東上する。
たまたま長井 雅楽が献言した議国論に反するを憤り、これを要殺して天下に謝することを欲しが、人が止めるところとなりて果たせなかった。
しかしながら、その憤恚(ふんい・*憤り、怒ること)を禁じることが出来ず、同月(*2月)13日、粟田山中(*京都市東山区の粟田神社の背後、蹴上にぽっかり浮かぶ なだらかな山)に入り、割腹して死す。年26
まさしく粟田宮(*京都市東山区にある崇徳天皇を祀る霊社)の正義を慕い、死を馬前(*貴人や主君の面前のたとえ)に致すの意を寓した(*直接示さず、他の事物に託して表現すること)のであった。 贈正五位
墓は、京都霊山護国神社(京都市東山区静閑寺霊山町)にある。
松浦 松洞は、吉田松陰自賛肖像で知られている。
松浦松洞筆, 吉田松陰賛
[安政6年5月21日]写、1859年
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
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二次利用自由 のものより
内容記述によると、
「三分出廬兮諸葛己矣夫 一身入洛兮賈彪安在哉 / 心師貫高兮而無素立名 志仰魯連兮遂乏釋難才 / 讀書無功兮撲學三十年 滅賊失計兮猛氣廿一回 / 人譏狂頑兮郷黨衆不容 身許君國兮死生吾久齊 / 至誠不動兮自古未之有 古人難及兮聖賢敢追陪 / 思父年少能知敬我、我是以深愛思父、思父無爲而死、是思父爲辜我、我害義而生是我爲負思父、思父室懸我像、兩心相照、一幅感深、辜負二字、天地豈容之哉。歳之五月念一二十一回猛士書」(出典:平成6年度京都大学附属図書館公開展示会図録『吉田松陰とその同志』) と、ある。

松浦松洞の墓は叉、山口県萩市の誕生地近くの適心寺にあり、墓碑には「無窮」の名(*松陰から授けられた名)が刻まれています。
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これ以降の画像は全て、
京都大学 維新特別資料文庫
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ より
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二次利用自由 のものより の画像です。
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01・花鳥下絵

02・草花下絵

03・群鶴図

04・実朝公那須篠原図

05・春江漁笛之図

06・春江漁笛之図

07・美女図下絵

08・福禄寿図

09・蓮花図

京都の風に吹かれて 次回に続きます。

