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京都の風に吹かれて 織田一麿の石版画を観る 4 東京風景 1

京都の風に吹かれて 織田一麿の石版画を観る 4・東京風景 1


織田一麿(おだ かずま)は、明治期から昭和期の芸術家、版画家。

洋画を河村清雄(*明治洋画の先駆者のひとり)、石版画をオットマン・スモリック(*オーストリアの石版技士)、金子政次郎(*明治~昭和初期の版画家)に学ぶ。

「自画石版の織田一磨」として知られる。

代表作は、「東京風景」、「大阪風景」などがあり、主な作品は東京国立近代美術館などに収められている。(ウィキペディアより)


本編は、織田一麿石版画の作品を、全て国立国会図書館蔵のものNDLイメージバンク)より、あくまで趣味的に観るものです。

● は、各、作品名に該当し、* は、投稿者の付記です。


●東京風景


01・織田一麿君作 東京風景版画集の序

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02・織田一麿君作 東京風景版画集の序 続き

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0102 織田一麿君作 東京風景版画集の序の【意訳】

* は、投稿者の付記。


織田 一麿君作 東京風景版画集の序

織田 一麿君は、東京市中の街衢(がいく・*町)、台榭(だいしゃ・*建物)、市塵(しじん・*市中の雑踏)、寺、祠、城郭、河川、溝渠(こうきょ・*給水や排水のために設けた溝や水路)、丘坡(きゅうは・*丘陵)およそ都人が日常に目睹(もくと・*目撃)するところの風景を描き西洋銅版画製作の方を採り、これを日本帋(枡)に応用し、新案の風景版画を製出(せいしゅつ・*作り出す)する。

君、この事に従うこと1年有半、自ら工人を管督し、版画およそ20種を成し得たのであった。

即ち、装演(*そうえん・*ここでは演出の意)して汎く(ひろく)同行の士に分けようとして、余に(*私に)求めるに解題を著わす事を以てした。

余は(*私は)静かに織田君が新案の版画を展開するのに、清潤温雅(せいじゅんおんが・*清らかでしとやかな)の画風、さらに奇を弄せず、ただ只管(ひたすら)、不変の趣味に立って、しかも亦、一点、市気の厭(あ)きるべきものを見ない。

蓋し(これは まさしく)才識双備の画人がよく版画の何たるかを思慮し、然る後(*その後)、悠々と筆を下したものでなければ、どうして能く(よく)この如くであることを得られようか。

まして私が思うに、版画の傑作と称するべきは、それは我が錦絵であると、西洋の銅版画であることの別なく、斎しく(ひとしく)平易軽妙の中、自ら又、可憐の情味言辞に述べ難いものが、なからざる可らず(*必ずあるのである、の意・二重否定の構文で強調の意)。


これにおいて、片々たる一小版画は、始めて よく純正美術の製作の比肩することを得るのである(*肩を並べられるの意)。

今、肉筆の大幅な名画をもって、園池(*池泉を主体とした庭園)の佳樹(けいじゅ・*美しさや優れたもの)に譬え(たとえ・*例え)ようか。

可憐な小版画は、正に窓前の一瓶の草花なのである。

草花は何人も、これを購い得ることができる。

版画は、即ち、何人にも解し易いことを要する。

然りと雖も(*そうだと云えども)、この平易で通俗である一歩を誤り卑俗に流れれば、忽ち(たちまち)、婦女の玩具、商舗(しょうほ・*品物を売る店)の招牌(しょうはい・*看板)と選ぶところがないことに至るのである。

然らば(そうであれば)、版画の名作は、恰も(あたかも)優美なる民謡のよく田夫野人(でんぷやじん・*教養のない粗野な人)の心情と共に、併せて、高人韻士(こうじん いんし・*その高尚な人格と風流な生活様式で知られる人物)の吟懐(ぎんかい・*詩を作りたいという心や詩心)をも動かすようなものとなってしまうのである。


織田君の東京風景は、よく この雅(みやび)と俗との境に於ける機密を捉え(とらえ)得て誤りがないのに、似ているのである。


題して既に東京風景と云い、日本橋、上野、浅草などを描くのである。

当世、野蛮な国会議員や無智な新聞記者と云えども、(*この描いたものを)見に来て、直ちに、その何たるかを知るべきである。

そして、製作者の美術家の面目に至っては、決して、この平易、通俗であるために没却されはいけない。

画中の布局設色(ふきょく せっしょく・*全体の配置・配分の様子や彩色)、ならびに光線・空気・時間の描法を仔細に列挙してくれば、一つとして製作者の才技(さいぎ・*才と技)は凡ではない(*普通ではない)ことを証明せざるはなし(*証明しないものはない、の意)。

凡そ(およそ)画家にしてその技は、一度、神に入ると、期せずして自ら、独特の天地をなし、一家の風を生じる。

これを我が風景版画の泰斗(たいと・*第一人者)、葛飾北斎、安藤広重、井草国芳 等を見ると、その描く所の名所は、大抵、相、同じと云えども、その気味、風韻に到っては、決して、相、同じではない。

諸家が各、得意の筆法があって得意の山水を作るところは、即ち、永く美術の一品として欣賞(きんしょう・*作品などを楽しむこと)に値する所以(ゆえん)である。

織田一麿君は、既に一家の体法(たいほう・*操り、動かすこと)を備える。

今、その東京風景版画を把って(とって)、これを北斎・広重などの江戸名所及び、小林清親の東京名所と比較しようではないか。

時勢と美術の両様の興趣(きょうしゅ・*興味や関心)は津々として尽きないものがある。

今日、我国の首都の概観の変革は、甚だ急で、昨日、街頭を仰ぎ見たところの高廈(こうか・*高い大きな家)の巨木が、今日、再び来れば、忽ち(たちまち)鳥有に帰して(*すっかりなくなっていまい)、尋ねようとして尋ねられないものを挙げれば数え難し。

織田君の風景中、洲崎の大時計の如きは、今は既に亡し(なし)。

この国の娼家(しょうか・*遊女屋)の憂鬱な側面は、沈滞する溝渠(こうきょ・*主に給排水を目的として造られる小規模な溝状のもの)の水に映る(うつる)ところは、釣魚の人影を添付して木炭画の筆を致す、かのローデンバック(*19世紀末のベルギーの詩人)の詩中の廃市を創想させるものがある。

これは、北斎が富岳三十六景の中の佃島の泊船・駿河台の丘阜(きゅうふ・*小高い山)を描いて、人に漫に(すぞろに・そぞろに)唐詩選中の景色を想起させる類(たぐい)と云うべきであろうか。

芝浦雨中の一図は、その布置(ふち・*配置)国芳が、御厨河岸の驟雨泥濘(しゅうう ぬかるみ・*突然の雨で地面のぬかるみに足を取られる)の図に似て、木場雪中の夜、江戸川亭の燈火は、屡々(しばしば)小林清親版画中の燈光夜色を思わせる。

これ まさしく、織田君の図を構えるではないか。

常に風雨・燈光・雲影の配合に留意する偶然の結果に出るものなのである。

今、織田君の東京風景20葉の中、余(*私)が見てもって、欣賞(きんしょう・*作品などを楽しむこと)に措く(おく・*控える)ことが出来るものを挙げるとする。

*それは)駿河台、ニコライ堂、京橋大根河岸、小石川大日堂、小舟町川筋、柳橋春雨の図など、皆、よく東京の現時の風景を描出して、時に世態・人情を窺い(うかがい)知らしめるもの 無きにあらず(*~であると、全く無いとは言えない)。

余(*私)は、年来、市井(しせい・*町)の散策を好み、その風景、版画を愛する。

然るに(しかるに・*なので)許して逸品となるべきものは、明治に至って、独り、小林清親翁の東京名所があるのみであった。

*しかし)ここに図らずも、織田君の製作を得て、欣喜措く能わず(*喜びに堪えず)、需要に応じて、敢えて辞ぜずに、漫り(みだり)に、この喜びを識す(しるす・*書きつける)。

  大正6年7月1日      永井 荷風


*永井 荷風は、明治から昭和時代を生きた日本の作家的な作家で、本名は永井壮吉。

短編小説集「あめりか物語」や日記「断腸亭日乗」など数々の作品を世出しその作風は耽美派と云われる。

明治43(1910)年に慶応義塾大学教授となり、雑誌『三田文学』を創刊。

後、文化勲章受章する



03凡例

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03・凡例  【意訳】

* は、投稿者の付記。


凡例

一 本画集に纏めた(まとめた)愛宕山以下20枚の自画石版は、大正52月以来、約1年半において製作したものである。


一 この1年余の版画制作に対する態度は屡々(しばしば)変遷を来した。

最初、客観的に始まって漸次(ぜんじ・*しだいに)主観的傾向を帯びて来た。

その変遷の経路は、極めて自然的なものであったが、今一冊の画集を纏めるに際して、

全体の統一を得難き結果に到達した愛宕山小舟町の如きは、写生を主として作品であるが、これに反して上野の咲くな、洲崎の景などは、自然を離れて碑聞く手に主観に依る所、多きの作であると云えよう。


一 本画集の20枚の版画は多く「麿(みがき)」の石版を使用したものであって、「砂目(すなめ)」の版面に描写したものは、愛宕山、小舟町、神楽坂の3枚である。

「麿」の石版を使用したものの内でも、日本橋、駿河台の如きなめらかな感じのものは、「麿」にクレオン(*クレヨン)を用いて描き、細部に削針(けずりばり)を使用したもの、洲崎、品川、本郷などは余(*私)の創案に、かかる特殊な手法を応用したものである。


一 元来、石版は薬品の化学的効果と「盛替(もりかへ)」その他、面倒な技法との調和に依って、始めて印刷し得る版面と成るものであるが、この調節完然を欠く時は版画面に変化を生じて、最初の俤(おもかげ)を失い、復帰することが出来ないものと成るのである。

お霊屋の墨版、日本橋、品川などは最初の薬品が強すぎ、あるいは弱気に失した結果、版を廃棄したぐらいに版面の破損を恐れたものであるが、その僅少な枚数の内にも、多少の変化は免れなかった。


一 風景の選択については、全く自由であった。

所謂(いわゆる)名高い場所や伝説的に有名な土地とは関係なく、余(*私)の面白いと感じた風景は、これを描写するに躊躇しなかったのである。

例えば、江戸川亭などは、高名な席亭ではなく、人々の注目する建築でもないが、余(*私)の美感を誘うに充分であったがために描写したのである。


一 東京市街に残存する江戸時代の建物で画的なものは、これを描写した。

本郷、龍岡町の旧加賀家長家、大根河岸の土蔵建民家、小舟町の並倉、その他、和田倉門など江戸の俤(おもかげ)を偲ぶ(しのぶ)に足る建物として記録しておく。


一 比較的欧風化した場所であって画的である情景は、洲崎築地の方面であろう。

余(*私)は洲崎の荒廃した街裏や築地海岸の帆船などに欧風化された都会生活の面白味を認めるものである。


一 欧風建築と従来の民家と錯綜混交する街路も叉、現時の都市特有の風景として一種の美観を誘うに足るものであろう。

上野広小路、日本橋、駿河台などは、この不統一の美観を描いたものである。


一 その他、種々の理由で本画集に加える事を得なった場所は、浅草観音、同 六区、半蔵門、飯田河岸、紀の国坂附近の外堀、湯島天神、九段坂などの高台。

江戸川 今川橋附近の掘割、土橋辺り河岸、その他、なお多くの風景を逸したが、それらは他日、東京風景の続編として製作するはずである。


一 本画集の発刊に際して永井荷風氏は御病中にも係わらず、余(*私)の乞いを容れられて、序文を恵与せられ、ために本画集は、一段と光彩を添えるに至ったのである。

余(*私)は深く永井氏の好意を感謝する。


一 版画の印刷に関しては、大伴鐵二氏が多年の経験と最新化学との傾倒して、熱心に従事されて、今、発刊に際して同氏の努力を謝す。


一 その他、大友工場の一員として平楽氏、佐藤氏などの好意をも合わせて謝しておく。

  大正67月  目白台にて           織田一麿



04・愛宕山

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05・十二階

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京都の風に吹かれて 織田一麿の石版画を観る 4 東京風景2 に続きます。






by kyotoshiryo | 2026-01-13 19:08 | Comments(0)